ゴムの歴史

子供むけ 「ゴムせいひんのできるまで」はこちら 07.12.3更新

1 ゴムとの出会い




近代人とゴムとの出会いは、1492年の第二回コロンブス航海時と
言えます。(ボール遊びしている原住民を見たことがはじまりです)
インディオたちは 6世紀ごろから、ゴムを ボールのほかにも
色々な道具として使っていました。
ゴム状の樹脂を出す植物から、樹液を集め、火であたためたり、
煙でいぶしたりして 水分を蒸発させて「生ゴム」をつくっていました。
土で作った型にゴムの樹液を塗って乾かし、中の土を砕いて
取り出し、ゴムの壺や水筒をつくりました。
足の型を取ってゴムの靴も作ったようです。
マヤ文明の古典期後期(7〜10世紀)には、球技場の遺跡が多く
残っています。芯までゴムで、バレーボールほどのボールを使い、
神官のもとで 行われていたようです。手を使わず腰で跳ね返し、
ボールを地面に落とした方が負けと言うものです。

19世紀末、自動車の発明と共に、ゴムも 開発されて行きます。
ジョン・ボイド・ダンロップが 空気入りタイヤを考案したのが、今日の
タイヤの基礎となります。
1850年〜70年まで、イギリスは ビクトリア王朝下で、世界の工場
として君臨してきましたが、アメリカやドイツの追い上げにより、
かげりがみえてきました。
その結果未開発国を征服して安価な原料を入手し、自国の経済を
繁栄させる・・・帝国主義の道を 歩みはじめます。
そんな中、アマゾン流域にしかなかった 原料ゴムを 移植する計画が
持上がりました。
生ゴムを 世界的に 独占するために、アマゾン流域の野生ゴムの
種子をロンドンの 王立植物園で発芽させ、東南アジアで、ゴム農園を
作ると言うものです。
1876年ウイッカムが それに 成功。1877年に セイロンに移植。
ここを拠点にして、マレー半島各地に 農園を 作って行きました。
日本軍の東南アジア占領まで、イギリスは 生ゴムを独占しました。



2 ウイッカムとゴムの種子

19世紀、イギリスは東南アジアの植民地で綿・コーヒー・茶・香料で
成功を 修めていました。
その頃、ゴムが今後有益だろうと言う事でインド省は 研究を始めて
いました。 それを知ったイギリスの探検家ヘンリー・ウイッカム
(1846〜1928)はインド省や ロンドン郊外のキュー王立植物園に
手紙を書きました。イギリス植民地で、ゴムを栽培するのに ヘベアの
種が必要なら是非、自分に集めさせてくれ。と言うものです。
当時、彼は 30歳で、アマゾン川の中流域で農園を営んでいました。
熱心な ウイッカムに動かされ、インド省は ヘベアの種をキュー植物園
まで 届ければ千粒当たり10ポンド払うと約束しました。
ところが ヘベアの種をイギリスまで 運ぶ事は 至難の技でした。
ヘベアの種は 熱帯に そのままの状態で 置いておくと、二週間で
半分が芽を出さなくなります。
さらに、1ヶ月もすると ほとんど発芽しなくなります。
ヘベアの実は 毎年3月ごろ成熟し、実の皮がパーンと音をたててはじけ、
何mも 深いジャングルに飛びちります。
ですから、如何に早く、イギリスに 届けるかにかかった訳です。
ゴムの実が はじける季節に、ウイッカムは 他国に寄らず、イギリスに
直行する船を探しました。幸運な事に 事情で 空船のままイギリスに
帰る『アマゾナス号』が見つかりました。
1876年3月、イギリスでお金を払う約束で その船を借り上げました。
そして、 さっそく顔見知りのインディオ達を励まし、大急ぎでヘベアの
種を集めさせました。
こうして、一週間で7万粒の種が集められ、一粒づつ、バナナの葉で
包み、大事に船積みされました。
しかし、ゴムを独占していたブラジル政府に 国外へ 種が流出する事が
わかったら大変な 事態になります。
税関で 手続きに時間がかっても発芽にかかわるので 大変です。
そこで、ウイッカムは 税関長をたずね、この船に積んであるのは、
イギリス女王に献上する デリケートな植物だから種子の入っている
籠を開けずに通してほしいと願い出ました。
アマゾナス号は 蒸気の圧力をあげて、許可の降りるのを今や遅しと
待ち受けていました。
ブラジル軍艦が 砲弾を向けて、違法者を威嚇している中、やっと
許可がおり、無事、出航する事ができました。
1876年6月14日の夜中、アマゾナス号はイギリスのリバプール港につき、
急行列車でロンドンへ その後は ウイッカム自身が馬車を走らせ
キュー植物園の フーカー園長の家に 向かいました。
着いたのは 午前2時、二階の窓に小石を投げつけて文字道りフーカーを
叩き起こし、ヘベアの種を 引き渡しました。
その夜のうちに 温室のランをかたずけ次の日ヘベアの種7万粒を
まきました。そして、それらの内、2,625本がみごとに 発芽しました。
当時の植物学からいくと、この発芽率は 驚異的な 数だったようです。
現在東南アジアのゴム園で栽培されている ヘベアはこのウイッカムの
運んだ種子の子孫です。
以後、アマゾンの奥地で 探したへべアの種を 移植しても ウイッカムの
よりすぐれたものは いまだに 見つかってないそうです。
ウイッカムは 1912年ゴムの移植の功績により『サー』の称号を
授かりました。

ゴムの木から樹液を集める作業



3 ヘンリー・ニコラス・リドレーとゴム園

ウイッカムが 苦労した 種子が 東南アジアで成功するかと思われましたが、
10年ほどたっても、インド省や キュー植物園に入ってくる現地からの報告
はみじめなものばかりでした。
シンガポールでは イギリスから送った苗を、税関の倉庫で全部枯らして
しまったとか、セイロンから送られた苗は 大きくなったがゴムが 全く
とれないとか。
そこで、フー園長は有能な弟子の ヘンリー・ニコラス・リドレー
(1855〜1956)をシンガポール植物園園長として送りこみました。
リドレーが シンガポール植物園についてみるとゴム園は すっかり
荒れ果てジャングルになっていました。
彼はまず、ゴム園をたてなおす仕事からはじめ、さらに、植物学者らしく、
ヘベアのどの部分からラテックスが出てくるか 慎重に調べました。
そして、樹皮の外から1センチ奥に ラテックスをためている管がある事を
突き止め、植物が成長する形成層を傷つけず、ラテックスを採る
タッピング法をあみだしました。
(毎日少しづつ、溝を掘る)よい苗木作り、接ぎ木なども経験ゼロから
はじめ、ゴム園を経営する事が これから有利な事をコーヒーや茶の
農園経営者に説いてまわりました。
ほとんどの 経営者は 「あほうのリドレー」といって、耳を傾けもしません
でした。しかし、自動車用タイヤのゴム需要が高まり1910年 ロンドン・
ニューヨークのゴム市場で最高値が付き、早くから リドレーの進言を
聞いていた経営者は 莫大な利益を得ました。
それをきっかけに1910年から 3年間の間に 毎年1,200平方キロ
以上のジャングルが焼かれ、ゴム農園が開かれました。
その煙は マラッカ海峡を通る客船からもよく見えたとの事です。
1911年、リドレーは 植物園を退任しましたが そのまま シンガポールに
とどまりゴム事業に貢献しました。
なんと、100歳のとき、イギリス女王から『サー』の称号を授かり、101歳で
生涯を終えました。

参考:マレーシアゴム園の画像が載っているHPを見つけました。
http://www.mypjs.com/johou/agri/GOMU/gomu.html



4 マラヤと日本軍とゴム



20世紀初頭の 20年間の マレー半島の繁栄はゴムと スズによって
もたらされました。
3でお話したように、1877年、苗木が イギリスよりシンガポール植物園 と、
ペラク州の イギリス人理事官  ヒュー・ロウの邸宅に 移植したのが
マレー半島の ゴム農園のはじまりです。
◆1905年 ゴム農園の 総面積(マレー) 3万8000エーカー
6年 10万エーカー、9年 50万431エーカー
しかし、スズより マレーの財政収入には なりませんでした。
と言うのは ゴム会社は イギリス及び、ヨーロッパ資本がほとんどで、
イギリスの会社など、 推定225%〜300%の配当を 株主に配り、
さらに 所得税も 本国政府のふところに入ったからです。
大きなゴム農園の 労働者の大部分は インド人で、募集移民でした。
◆1910年 2523名、1926年 14万9414名
彼らは 薄給で タッピングと言う、作業をしました。ゴムの木の樹皮に
傷をつけ樹液を 集める作業です。乳白色の ・樹液はゴムラテックスと
呼ばれます。中古ラテン語で 液体の意味です。
弾性ゴムを フランス語で、カオチュー、ドイツ語で、カオチューク。
インディオの言葉で 『涙を流す木』からきています。
英語では 字を消す(rub out)から、Rubberです。
尚、ゴム(gom)は オランダからの 外来語です。
順調に伸びていた ゴム農園も 1929年の世界恐慌で打撃をうけます。
また、後に 日本軍侵攻によっても 打撃を 受けました。
1941年、第25軍率いる山下奉文司令官が マレー半島に上陸。
イギリスの 東洋艦隊・極東空軍を 撃破して、ついに、マラヤは
1945年9月12日まで日本軍政下に 置かれます。
ちなみに、降伏文書調印が 行われたのが、ゴムと 縁のある?
『フォード自動車工場』で、シンガポールのブキティマです。
山下・パーシバル両司令官よって 例のエピソード「イエスか ノーか」と
迫った お話です。
1941年12月8日の 真珠湾攻撃後、わずか 2ヶ月足らずで
北ボルネオも日本軍に 占領されます。
(1945年10月まで)日本軍は 『大東亜共栄圏構想』を 推進する結果、
マレーには 混乱と 無秩序が やってきました。
さらに、ゴム生産と スズ鉱業は開店休業状態になってしまいました。
ゴムの木は 切り倒され、でんぷんを 採取する為に、タピオカが
植えられました。
北ボルネオでも ゴムの輸出が ストップし、ゴムの輸出でタイから
米を 買う事も叶わなくなりました。
しかし、日本の敗戦後、再び イギリスは 捲土重来とばかりに
ゴムに 力をいれます。
北ボルネオでは 1947年に1万5,000トン 輸出できるまで 復活しました。

5 ブラジルのゴム


ゴムの木は 私達が 花屋で見かけるだ円の大きな葉のインドゴムと言う、
観葉植物とは異なります。
(一応ゴムは 採れるが、質が悪い)東南アジアで 栽培されてるのは
ヘベア・ブラジリエンスと言う、トウダイグサ科のゴムの木で
高さ20〜30m。
6〜7年でゴムが 採れるようになり、15〜20年で 収量が落ちてくる
ものです。
種子はうずらの卵ほどあるそうです。
19世紀まで 生ゴムは すべてブラジルに自生しているヘベアから
作られました。
1850年 1,466トンそれが、自動車の発明により
1911年 44,296トンにまで 需要が伸びました。
アマゾンの河口から 1,000キロも逆上ったマナオスの町で ゴムの取引が
行われていました。
世界中から ゴム商人が集まり、町は 活気にあふれ、一人当たり、最も
富んだ町にまで 発展したそうです。南アメリカで 最初に電車が走り、
夜は 不夜城のごとく街灯が輝き、豪華なオペラハウスも 建設されました。
ところが、このヘベアの木は 一平方キロに数本、ポツポツとしか
自生していませんでした。
需要を満たす為に、ゴム業者は  インディオ達にひどい仕打ちを
加えてかき集めだし、1人150本のヘベアを受け持たせ1日に
20〜30キロも歩かせました。
インディオ達は 疲れと 病気、けがの為に次々死んで行きました。
1900年〜1911年の間に 4,000tのゴムを採る為になんと 3万人もの
死者がでたそうです。
世界中からの非難によって、ゴム業者は 仕事がこれまでのように
行かなくなりました。
と同時にマレー半島での 人工栽培のゴムが 安価に出回りだし、
ブラジルの繁栄は 一挙に終息の方向に向かいました。

6 ドイツとアメリカ


自動車工業をはじめとする諸産業の発展と戦争などにより、ゴムの需要は
ひっぱくしていました。
東南アジアに 天然ゴムの拠点を 持たず、生ゴムの入手に苦慮していた
アメリカとドイツは化学的に合成する 合成ゴムの研究に進んで行きました。

ドイツ
ドイツは第一次大戦の海上封鎖により ゴムの入手に苦慮しました。
その為、石炭化学を基礎とした合成ゴムの研究が始まりました。
1914年 メチルゴムの工業化(現在は 生産されてない)
1933年 ブナS 完成・・ブタジエンとスチレンを 用いナトリウムを触媒にした。
↑(I.G.Farbenindustrie社)
1934年 ブナN成功・・ブタジエンとアクリロニトリルの共重合
↑(I.G.Farbenindustrie社)
ヒットラーは 軍需資材としての  ゴムの重要性を理解し、ブナSの大増
Y計画(1935年)を立て、2年後 月産25万トンに達した。
ヒットラーは1935年9月のナチス党大会で「ドイツは石炭と石灰から
ゴムを得ることに成功し、ゴムを持てる国になった。合成ゴムの完全
国産化に成功した。」と述べてその成功を祝った。
◆1925年に 独)F. Hofmann(Bayer社):ブタジエンの金属ナトリウムによる
重合の研究⇒金属ナトリウムでブタジエンから合成ゴムを得る。
ブタジエンとナトリウムの頭文字を取ってBunaと名付けた。

自動車王フォードとゴム
第1次世界大戦の時、自動車王フォードと発明王エジソンは
ヘベア以外の 植物からゴムが 採れないか 研究しました。
アメリカ国内の植物2000種を調べましたがヘベアに変わる物
見つからず、この計画は失敗しました。
フォードは アマゾンの奥地800万平方メートルにゴム園を
つくりゴムを採ろうとしました。もともと、ヘベアの故郷なので、
成功するかに思えましたが南アメリカ葉枯病(SALB)と言う
カビの一種にやられ、1945年、ついに フォードは諦めました。
自然の歴史の中で、ヘベアを生み出したアマゾンはヘベアの
天敵であるSALB病菌をも 同時にもっていたのです。
東南アジアでの ゴム園の成功は そこに天敵がいなかった
事に よるものとも 言えるそうです。


アメリカ
第2次世界大戦までは 天然ゴムをイギリスから輸入できる立場に
あり、自動車タイヤ用などに ほぼ問題なく手配できました。
ドイツのブナSも 輸入していました。
ところが、1942年に 日本軍がマレー・ジャワ・スマトラなど占領し、
輸入ルートが断たれてしまいました。
そこで、ルーズベルト大統領は 合成ゴムの製造を 国家管理のもとに
推進する大統領命令を制定し 莫大な研究費を使って短期間に
ブナ系ゴムの生産に力を注ぎました。
1945年には85万tに達しました。1955年に、政府管理下のゴムは
民間に移され、世界に輸出されました。
1957年ごろには、イギリス・日本・オランダ・オーストラリアなどへ
技術輸出されるようになりました。
自動車の発明がなければ これほどまでにゴムは発達しなかった
かもしれません。 また、二度の大戦がなかったら、合成ゴムの
研究もなされなかったでしょう。
ゴムは、意外にも 産業の重要な 位置を占めていたわけです。
◆1941年 米国家防衛会議(Council of National Defence)に  
ゴム専門委員会が設置され、10月に政府の合成ゴムの生産・
販売・利用の国家管理を委託したゴム確保公団(Rubber Reserve
Company)(RRC)が設立された。
◆RRCは4大ゴムメーカーにGR-Sの各1万トンプラン建設を要求。
◆1941年米国戦線布告
◆1942年4月から44年9月に6億7,700万ドルの政府資金を投入。
51の政府所有合成ゴム工場を建設し、4工場が42年に操業し、
15の工場が43年末操業した。
GR-Sの生産量  BunaS、GR-Sの生産量(単位:千ロングトン)
米国 カナダ ドイツ
1939 20.6
1940 37.1
1941 0.23 65.9
1942 3.7 94.2
1943 182.3 2.5 110.6
1944 670.3 32.1 95.7
1945 719.4 36.6
 ドイツのBuna Sに相当するSBRを米国では 
 Government Rubber Styrene⇒GR−Sと命名した。
 GR-A⇒NBR、GR-I⇒IIR、 GR-M⇒CR



7 第2次世界大戦後の日本の合成ゴム工業の発展


日本のゴム加工産業はタイヤや履物を中心として1950年には
戦前の水準に戻りました。
日本の合成ゴム工業技術は、他の工業と同じように技術導入から
始まって、1960年代〜70年代は独自の製造技術を確立し、
黄金時代を向かえました。
◆1957年 「合成ゴム製造事業特別処置法」により
日本合成ゴム梶yJSR】が設立された。
◆1959年 日本ゼオン鰍ヘグッドリッチ社から技術導入。
NBRとハイスチレンSBRとそれらのラテックスの生産開始。
その後、汎用のSBRも生産。
◆1960年日本合成ゴム鰍ヘ、グッドイヤー社からの技術導入、
SBR及びSBRラテックスの生産開始。
その後NBRとハイスチレンSBRも製造。
◆1969年「合成ゴム製造事業特別処置法」の廃止法が公布。
JSRは民間となる。

ゴム種類 会社名 自社・導入技術
1962 CR 電気化学 自社技術
1963 CR 昭和ネオプレン デュポン社
1971 CR 東ソー BPケミカル社
1965 IIR 日本ブチル エッソケミカル社
1966 Q 東レ・ダウ ダウケミカル社
1971 Q 東芝シリコーン ゼネラルエレクトリック社
1978 Q 信越化学 自社技術
1973 ACM 日本ゼオン グッドリッチ社
1970 FKM ダイキン工業 自社技術
1982 FKM 旭硝子 自社技術
1983 CHR 大阪曹達 自社技術
1989 CHR 日本ゼオン グッドリッチ社
CR:クロロプレンゴム
ACM:アクリルゴム
IIR:ブチルゴム
FKM:フッ素ゴム
Q:シリコーンゴム
CHR:ヒドリンゴム

■日本の合成ゴム技術の発展

技術導入⇒自主技術⇒技術輸出⇒海外進出



8 ヘベア以外からゴムを採る研究、他


■グアユーレ・・・・キク科の30〜40センチぐらいの植物葉をとりさり、
茎をくだき 薬品を使ってゴム分を 採る事が可能。メキシコ。

■コーサカスタンポポ・・・・根からゴム分を 採る。ロシア。

■現在、ヘベアから採る天然ゴムは 合成ゴムの半分です。
合成ゴムは 一つの特徴を 付けると、他が劣ると言う欠点があります。
一方、天然ゴムは どの性質に関しても
80点以上のよさを 持っているので、
ジャンボジェットのタイヤや工場現場の
200トン ダンプのタイヤなどにはかかせません。
一般の自動車タイヤは 両方が使われます。

■日本に初めてゴムが 紹介されたのは ペリーが、
1854年(安政元年)に、将軍に献上した
電信器のコードだと言われています。


参考資料 画像引用:「ゴムのおはなし」小松公栄 著
「ゴムのおはなし」須之部淑男
「マヤ文明の謎」青木春夫 著
浅井治海著「20世紀を拓いたゴム材料」
その他




戦後日本

高分子産業の発展と研究開発の流れ

()内は昭和年  出典:創栄出版鰍Q002年 「研究開発の道」吉岡明 著
注)下記記述は日本ゼオンを主体としたものになっています。

昭和 時代 R&Dの内容 主な出来事
20〜29 復興期 ・技術の咀嚼 ・ゼオン会社設立ーグッドリッチケミカルより
 PVC技術導入(25)
・PVC生産開始(27)
東レナイロン、住友メラミン樹脂、旭化成サラン、
信越化学シリコン樹脂
30〜39 創設期
(技術導入)
・ユーザーへの技術伝達、
 技術指導
材料メーカー
主導研究開発
・ゼオンPVCペースト生産開始(30)
・特殊合成ゴム生産開始(34)
・ゼオン研究所設立(加工)(34)
チグラー法PE、ST、日本合成ゴム設立(32)
PST、テトロン、高圧・中圧PE、BD、PP、
エポキシ、ソハイオVCN、Cis1.4ポリBD、Li法PBD、
石化センター、エチレン80万t/Y(40)
40〜49 発展期
(高成長)
・ユーザー改良要求対応
・サービスデータ提供
受身的研究開発 ・ゼオンブタジエン、SBR、Cis1.4ポリBD生産開始(40)
・GPI(44)、C樹脂(48)、PIR(46)
日本合成ゴム民間移行(44)
エチレン400万t/Yとなる(48)
オイルショック
50〜 開発期
(高性能
製品)
・ユーザーニーズの先見
・高性能、高機能製品開発
積極的、
計画的研究開発
ゼオンS61日本化学会化学技術賞「選択水素化反応
による水素化ニトリルゴムの開発と工業化」

ゼオンS61高分子学会賞「高ビニルポリブタジエンゴム
の開発と工業化」
ゼオンS63日本化学会化学技術賞「分子末端変性
ゴムの開発」


※高分子全般に関わる年表は下記サイトを参考になさってください。
社団法人高分子学会 高分子科学史年表(1921-1925) http://www.spsj.or.jp/nenpyo/1921-1925.htm
1975年 http://www.spsj.or.jp/nenpyo/1975.htm